原將人、フィルムの死と再生
戦争、地震、不意の火事。これまで数えきれないフィルムが失われてきた。
ニトロ・セルロースによる可燃性フィルムは気温が上昇すると酸化分解し、たやすく自然発火してしまう。1950年に松竹下賀茂撮影所のフィルム倉庫で起きた火事は、周辺の十数軒の民家を焼き、衣笠貞之助の戦前作品のほとんど燃やしてしまった。そして奇跡的に厄難を逃れた『狂つた一頁』を、日本映画史を輝かしいものにした。
われわれは映画がいつまでも不朽のものだと、無邪気に信じて来た。しかしフィルムはつねに失われてきた。だがそれは、フィルムがつねに撮られ続けてきたということと同義である。映画とは喪失の対立物であり、世界の再生のことだ。

2018年、原將人は自宅の火災により、これまで撮ってきた多くのフィルムを喪失した。
彼は燃え盛る火の中、編集中の作品とデータの入ったパソコンとハードディスクを取り出すのが精一杯で、このときはさすがに撮影することはできなかった。しかし燃え崩れた家のなかから残骸と化したフィルム缶を発掘し、作業のいっさいを撮影した。われわれがここに観るのは、編集された映像の記録である。
映像が滅び、その灰燼のなかから新しい映像が誕生する。死と再生の劇がここにはある。

世界は凋落の一途を辿っている。巷間には眼に見えない恐怖が遍在し、人々はありえぬ敵をめぐって憎悪の言葉を口にしている。
10年前、東北の沿岸地帯に住む多くの人々に巨大な津波が襲いかかり、原子力発電所で深刻な災害が生じた。人々は自然という<他者>にいいしれぬ恐怖を感じ、原発という<敵>に強い怒りを感じた。悲嘆に抗し恐怖と怒りを動機とする映像が、次々と制作された。
原將人の厄難は福島のそれとはまったく異なっている。そこには他者も敵もない。原はそのなかにあって、あらゆる憎悪から免れている。彼は悲嘆に溺れることを自分に許さない。炎を見つめ、焼土を掘り起こし、次のフィルムを制作する機会を忍耐強く窺う。
原將人はつねに孤立無援であったが、それを他者にむかって容易に訴えないことを道徳としてきた。つねに自足した存在である。かつて信じられてきた安全や他人への信頼のことごとくが崩壊を見せている世界にあって、原將人は今、「自分自身の庭園を耕す」(ヴォルテール)ことを通し、われわれに再生という観念を差し出している。かつてそうであったように、いつものように、坦々とした口調で。

―四方田犬彦(映画誌・比較文学研究)