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焼け跡クロニクル

焼け跡クロニクル

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伝説的映画監督、原将人 特集上映

『映画になった男』公式サイト

監督・撮影・編集:原まおり 原將人

出演:原將人 原まみや 原かりん 原 鼓卯 原まおり 佐藤眞理子 
製作:原正孝 プロデューサー:有吉 司 音楽:原將人 タイトル音楽:原まみや、原かりん 
エンディング音楽編曲・演奏:遠藤晶美 整音協力:弦巻 裕 カラーグレーディング:上野 芳弘 
題字:赤松陽構造 技術:アシスト 
協賛:ヨコシネディーアイエー 後援:京都市 配給・宣伝:マジックアワー
2022年/日本/84分/5.1ch/16:9/カラー
Ⓒ2022『焼け跡クロニクル』プロジェクト

2022年2月25日㊎、
シネスイッチ銀座ほか
全国順次ロードショー

予告編
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INTRODUCTION
& STORY

イントロダクション&あらすじ

68歳映画監督、
ある日突然家が焼けた。
わずかに生き残った
8ミリフィルムに刻まれた
家族の歴史。
そして、再生の物語。

2018年7月、昔ながらの町家が残る京都西陣。路地奥にあった映画監督・原將人の自宅が不慮の火事で全焼した。幸い家族5人は無事だったものの、すべての家財道具と保管していた映画フィルムや機材が焼失してしまう。原は新作のデータを救いに火の中へ戻り、やけどを負って入院。夫を安心させようと、妻のまおりはとっさに家族の様子をスマートフォンで撮影した。
今夜寝る場所は?着る服や靴は?火災保険は?明日からの仕事や学校は?
呆然とした夜が明けて、嵐のような日々がはじまったーー

あの日 あの時の、
なんでもない日常の記憶が、
生きる力になってゆく。
ゼロから再び立ち上がるまで、
カメラを通して見つめ続けた
セルフドキュメンタリー

慌てて買った炊飯器で作ったほかほかのおにぎり。家族揃ってのラジオ体操。双子の妹をあやす兄。そこにあるはずのものが無い悲しみ。他人の優しさ。カメラ=母の眼差しは、非日常のなかの家族の風景をつぶさに捉えていく。屈託のない笑顔を見せる子どもたちにつられ、大人たちが前を向き始めた頃、家の焼け跡から奇跡的に生き残った「あるもの」が見つかって…。

生き残った8ミリフィルムに写っていた日常の記憶が、過去と現在、未来をつなぎ、家族の歴史を紡いでいく。痛みの物語でありながら、包み込まれるような優しさと懐かしさに満ちた、驚きの傑作が誕生した。

DIRECTOR

監督メッセージ

原まおり監督

不慮の火事に遭遇して、
真っ先に心配したのは
3人の子供たちの未来です。

火事のニュースを目にすることがあります。しかし、「その後の彼らがどうなったのか?」を知ることは滅多にありません。だからこそ、この映画を作りました。『焼け跡クロニクル』は、2018年に火事にあった私たち家族の実話です。

不慮の火事に遭遇して、真っ先に心配したのは3人の子供たちの未来です。保育園のロッカーに預けていた物だけが、当時5歳の双子の娘たちに残された物でした。娘たちは火事の後から、大事な物をそのロッカーに置いて帰るようになり、火事による子供たちの大きな変化を知りました。火事のことがトラウマにならないようにしてあげたい。子供たちは、未来そのものです。愛情をたっぷり注いで大切に育てようと決めました。

火事のことを、家族の間で話せるようになったのは、それから2年くらい経った頃でしょうか。火事の記憶や印象がそれぞれ違うことには新鮮な驚きがありました。

長男は、家を失った辛さがわかるから、将来そういう人たちを助けるような仕事がしたい。双子の娘たちは、火事の10日前にもらったお誕生日プレゼントのお人形でもっと遊びたかったから、どうしても同じ人形を買って欲しいと話してくれました。実際に火事を経験するまで「火事にあった人は、可哀想。不幸」だと思っていました。でも私たち家族は、一緒に経験した家族のイベントとして前向きに生きられるようになっていきました。

火事当日にスマホのカメラを回していたのは、なぜだったのでしょうか。火事の大騒動は、まるで夢か映画の中にいるような非日常空間でした。カメラを回して記録が残るのであれば、それを現実に起きたこととして受け止める事ができると思いました。

私にとって、カメラで撮影することはフレームの中に対象を入れて、見つめること。見つめるということは、見ることを超えて、愛することだと思っています。きっと、火事のありえないような時間の流れの中でも、家族をしっかりと見つめていたかったのかもしれません。

ある1本の映画に出逢い、生きてみるべきだと救われた経験があります。今年のお正月に見た小津安二郎監督の『晩春』では、原節子の父親役の笠 智衆が、何度も、何度も「しあわせになるんだよ」と言っていました。私にとって映画は、生きる希望であり、人生の先生です。シナリオもない記録映像を前に、もし作れるのであれば、そういう映画を作りたいと願いました。

2021年9月5日から約2ヶ月間、編集作業を進めながら『焼け跡クロニクル』を完成させる為のクラウドファンディングに踏み切りました。これは結果的に映画にとってはとてもよいことでした。支援者の方々の応援パワーがそのまま編集熱量に加わったからです。この場をお借りして、クラウドファンディングへご支援いただき、映画の完成にお力添えいただいたみなさま方に感謝し、御礼申し上げます。ご支援がなければ、今はありませんでした。映画は完成しておりません。

住宅火事にあう確率は0.017%だそうです。そうそう火事にあうことはありません。ところが、我が家は火事で全焼してしまいました。日本全国で月平均872件の住宅火災が起きています。まさか自分の人生で、火事にあうなど考えたこともありませんでした。ただ、これだけは言えます。火事にあい、裸足で逃げ出した娘たちに靴を履かせてくれた人。ガスのない避難先の公民館にガスコンロを届けてくれた人。優しい言葉や励ましの言葉をかけてくださる人々がいっぱいいました。辛い時に寄り添ってくださった方々に勇気をもらい、支えられながら『焼け跡クロニクル』が誕生しました。

原 まおり(はら まおり)

1973年1月1日、大分県日田市出身。荒井晴彦初監督作品『身も心も』に炊事班として参加。湯布院映画祭で原 將人と出会い、結婚。第1回 フランクフルト国際映画祭で観客賞受賞した『MI・TA・RI!』では、夫である原に師事し、撮影、編集、 脚本、出演など映画全般を学ぶ。戦後の昭和30年代を舞台にした『あなたにゐてほしい ~SOAR~』では主演(観音崎まおり)を務め、ゆうばり国際ファンタスティック映画祭にて、渚特別賞を受賞。火事後、自己肯定感を取り戻すために、慶應義塾大学文学部通信課程で勉強中。

原將人監督

あり得るべき未来を獲得する

新作『焼け跡クロニクル』を語るにあたって、まず、2020年にアメリカのミネアポリスで起きた、白人警官による無罪の黒人の殺害事件を、勇気を持って記録し続けた18歳少女のことを思い出してほしい。撮影することによって獲得できる未来があることを。
少女のスマホ映像は、アメリカという国の、奴隷制や人種差別という、大きな物語を喚起させ、人種的平等という未来を獲得する動きへと繋がっていったものだが、この『焼け跡クロニクル』の私たち家族に起きた火事とその後の映像は、それに比べたらごくごく小さなもので、大きな物語や権力への抗議などを想起させるものはない。
しかし、この映画の共同監督であるまおり(真織)が、火事の知らせを受けて我が家に向かった時からスマホのカメラを回していたことは、映画の歴史に於いてはそれと同じくらい重要なことだったと、今、思うのだ。

私たちの日常は、映画に撮っても、非日常の枠組みが加えられなければ(ホームムービーで終わってしまう)、長い歴史のなかに埋没し、決して作品として広く見られ、未来に残ることもない。
『焼け跡クロニクル』は、宇宙歴138億年、地球歴48億年の今、この星に生まれてきた者同士がたまたま家族を作り、未来へ向かっていのちを紡いでいくということのいとなみが、火事という非日常と出会うことによって、スマホという小さなカメラにつぶさに記録され、生成された映画だ。
だから、『焼け跡クロニクル』を日本中の人々に届けたい。世界中の人々に届けたい。 私たちの未来に届けたい。そして、私たちがあり得るべき未来を獲得することにつなげたい。
かつて小津安二郎監督の『東京物語』がそうであったように、小さな家族の小さな映画を、世界に羽ばたかせたいという願いを込めて、『焼け跡クロニクル』を作った。

ことの次第

ことの始めは、2018年の猛暑。大正時代に建てられた、京都・西陣(日本映画の父である牧野省三が映画を撮り始めた地)の、かつて織物工場であった路地奥の小さな我が家が、不慮の火事に遭遇した。火元は不明、火のないところから火が出たのだ。おそらくは 漏電による出火だろう、ということで消防の調査報告は終わっていた。

火のこどもたちが
手を繋いで踊っていた

火を最初に見つけたのは私だった。双子の娘を連れて、送迎バスの迎えから戻ると、2階でガサゴソ音がした。
梅雨明けの大雨の時から北野天満宮のイタチが度々我が家に避難していたので、きっと イタチだ、そうっと近づいて驚かして追い払ってやろうと階段を登っていくと、何と火のこどもたちが手を繋いで炎となって踊っているではないか。
「何だ!お前たちは、こんなところで踊ってちゃダメじゃないか!」と思わず言ったその瞬時「これって火事じゃないか!」「火事だ!」と、ファンタジーの世界から、現実に立ち戻った。でも、炎は、まだ小さかったので、消せると思い、「おとなしくしようね」 と、布団や毛布をかけてみたが、「嫌だ!嫌だ!」と、火の勢いは衰えることを知らず、たちまちフォルテッシモのシンフォニーを轟かせたのだった。

これで映画人生は終わったか!

もう逃げるしかないと、大学生の息子に消防に連絡を取らせながら双子の娘を連れて外へ避難した。火が外部に広がらぬよう玄関のドアノブをガチャンと閉めた時、今編集中の作品を消滅させてしまっていいのかという強い思いが込み上げ、子供たちに路地から表通りへ出るように言って、私は再び煙の充満する家の中に飛び込んでいった。
家の奥の仕事場まで行って、パソコンとハードディスクを持ち出そうとした。絡まっている配線を解いていると、煙で見えにくくなってくる、息苦しくはなってくる・・・ああ、こりゃ死ぬな!と思い、配線を全部引きちぎって、機材だけは持ち出し、命からがら外へ出た。

気がつけばヤケド!

すぐに消防と警察の方々が駆けつけてくれたが、我が家は路地のドン付きにあったので、消火ホースを入れるにも手間取る。それを、気が気じゃない思いで、見ていると、消防の方に「火傷してますよ、だんだんひどくなってきますから、早い方がいいですよ」 と再三、再四、緊急入院を勧められた。
最初は、平気だと思っていたが、次第に、顔や肩や腕がヒリヒリしてきて、限界に達した。
消し止められるのか、このまま全焼するのか、延焼するのか、それに立ち会わないでいいのか・・・あとのことは、心配は心配だったが、息子と、もう職場から帰途についていた妻に任せるしかないと思い、救急車に乗り、日赤病院に緊急搬送された。

夢は焼け野を駆け巡る

その日は、軟膏を塗られ、包帯にグルグル巻きにされ、酸素ボンベを口にあてがって一晩を過ごした。ああ、ポケットのスマホで撮っておけばよかった。子供たちには直接火を見せないでよかった。いつか映画で見た焼け野にハモニカが流れる映像。やはりスマホで撮っておくべきだった・・・妄念は真夜中の緊急病棟を駆け巡り、とてもとても長い夜を過ごすことになった。この長い夜のことは3年経った今もつい昨日のように思い出す。
翌朝、近くの公民館に家族4人で身を寄せていた妻、まおりと電話で話ができた。まおりから、昨日帰ってからスマホで現場の模様を撮っていると聞き、これには本当に救われた思いがした。

病院の寝間着姿で現場検証に!

火事の翌日の昼には、熱中症の患者がいっぱいでベッドに空きがないと病院を追い出され、焼け跡の自宅に戻り、現場検証に立ち会った。
包帯だらけで、着替えの服もなく、入院患者の服をそのまま借りて出てきた私は、とても自撮りするような元気はなかったが、待ち構えていたまおりが、スマホで一部始終を撮影していた。
それから・・・それから・・・それから・・・火事の翌日がとてつもなく長かったこと。 まおりの、スマホの容量が一杯になり、息子のiPadでずっと回し続けていた映像を、見返す度にそのことを思う。ほんとうに火事は我が家のビッグイベントだったのだ。
『焼け跡クロニクル』が完成し、すべてを失った喪失感から立ち直れた今だからそう言える。

『焼け跡ダイアリー』

まおりの記録映像をもとに、火事の翌年に『焼け跡ダイアリー』という作品にまとめ、東京ドキュメンタリー映画祭に出品した。火事のことを知り、ネットで応援を呼びかけてくれた、東京ドキュメンタリー映画祭のスタッフの熱意に応えるためだった。
しかし、このときは、火を消せなかったという自責の念と、データは残ったがオリジナルのすべてを失ったことからくる、暗く重たい精神状態から抜け出せず、なかなか編集は進まなかったが、まおりの記録映像と、それに焼け残った過去の8ミリフィルムを加えて、ようやく、小さな家族の小さな映画として完成させた。それでも、私の喪失感は払拭されていなかった。

『焼け跡ダイアリー』から
『焼け跡クロニクル』へ

『焼け跡ダイアリー』も完成して、火事から2年が過ぎたころ、まおりが「もう一度『焼け跡ダイアリー』を編集してみない?」と、言った。この時、冒頭に述べた、スマホで白人警官の黒人への暴力を撮り続けた、ミネアポリスの少女のことが頭をよぎった。まおりは、火事という今を、未来に向かって、乗り越えるためにスマホで記録し始めたのではなかったか、そう思われた。
小さな家族の小さな映画を大きく羽ばたかせよう、あり得るべき未来のために!そんな考えが浮かぶようになった。
焼け残った8ミリフィルムだけではなくて、新しく8ミリフィルムで撮影した映像も加えようと思い、コダックが開発中のスーパー8ミリカメラを調べた。カメラの発売はまだだったが、新しいリバーサルフィルムが発売されているのを知り、 それで撮影しエンディングにすることにした。
ふたりで編集や撮影、ナレーションの録音を進めるうちに『焼け跡ダイアリー』は、明らかに作品としての姿を変えていった。いつしか、別の作品になっていったのだ。
その、私たち家族の過去と未来をも見据えた、年代記ともいうべき新たな作品に『焼け跡クロニクル』というタイトルをつけ、編集作業を続けた。どこかでレイ・ブラッドベリーの『火星年代記』が頭にあったのかもしれない。
京都人にとって、こないだの火事は、応仁の乱。人類は、幾度もの災難に負けず、いつも這い上がってきた。歴史は、復興の繰り返しなのだから、苦境を前に、落胆してはならないのだ!(人類は疫病にも負けるわけがない)

こうして『焼け跡クロニクル』が、大きく羽を広げようとしていた時、配給会社のマジックアワーさんが、応援しよう!と言ってくれた。そして、数々のアドバイスをいただいて、『焼け跡クロニクル』は完成に向かっていった。
この映画には家族の歴史とともに、映画の歴史がまるごと詰まっている。最もフィルムらしいフィルム、8ミリが使われ、フィルムとデジタルの違い、その長所と短所が、 展開する映像を通じて如実に語られている。

家は炎に包まれたが、炎のなかから誕生したのが『焼け跡クロニクル』だ。それが、今まさに飛び立とうとしている。すべての皆さまに見ていただくことで映画は、映画になる。ぜひぜひ『焼け跡クロニクル』をご覧いただき、より多くの人々にこの映画をお届けすることにお力をお貸しいただき、大空にはばたかせる一助をになっていただきたいと願う。

原將人(はら まさと)

1950年、東京生まれ。1999年より京都在住。1968年、麻布学園高校在学中に『おかしさに彩られた悲しみのバラード』(以下『バラード』)で第1回フィルムアートフェスティバル東京においてグランプリ・ ATG賞をW受賞。10代で松本俊夫監督の『薔薇の葬列』助監督、大島渚監督『東京战争戦後秘話』脚本・予告編の演出を手掛け、天才映画少年と称される。
1973年に発表した『初国知所之天皇』は独自のスタイルで、新しい映画の地平を切り開き、インディーズ映画の傑作として語り継がれる。瀬々敬久、大森一樹、犬童一心らが「監督を志したきっかけは『バラード』と『初国知所之天皇』」と公言し、『バラード』は村上龍の小説「69」にも登場するなど、多大な影響を及ぼした。
1997年、広末涼子映画デビュー作『20世紀ノスタルジア』で、日本映画監督協会新人賞を受賞。2002 年、デジタルプロジェクター1台と8mm映写機2台による、3面マルチ投影のライブ作品『MI・TA・RI!』が第1回フランクフルト国際映画祭観客賞受賞。63歳で、双子の姉妹の父になる。
その他の作品に芭蕉の「奥の細道」を追った『百代の過客』(93・山形国際ドキュメンタリー映画祭95コンペティション作品)、『あなたにゐてほしい~SOAR~』(13・ゆうばり国際ファンタスティック映画祭渚特別賞)、『双子暦記・私小説』(18・第1回東京ドキュメンタリー映画祭長編部門グランプリ)などがある。

ABOUT

解説

「伝説的映画監督、原將人」の
軌跡 

金子遊(批評家・映像作家)

「原將人」と聞いて、相当なシネフィルであっても「名前は知ってるけど作品は観たことがない」「広末涼子のデビュー作『20世紀ノスタルジア』だけ観た」という人が多いのではないだろうか。なぜなら、原の作品のほとんどが実験映画や前衛映画、ドキュメンタリーのジャンルに属しており、山形の映画祭まで行って観たり、全国各地でおこなわれる彼のライブ付き上映に足を運ばないと観られない作品が多いからだ。それゆえに「伝説の映画作家」や「日本のゴダール」「日本のジョナス・メカス」といった形容句が彼の名前にはつきまとう。大森一樹、瀬々敬久、犬童一心ら商業映画で活躍する監督たちが強い影響を受けたことを公言する監督・原將人を「伝説」のままにしていてはいけない。ここでは原將人による珠玉の作品群を、前期、中期、後期という年代順に整理して紹介しよう。

前期は「天才映画少年」の時代だ。1968年、麻布高校時代に友人たちと16ミリで撮った短編『おかしさに彩られた悲しみのバラード』が、武満徹や勅使河原宏が審査員をつとめる映画祭でW受賞を果たす。新聞や雑誌などマスコミの寵児となり、若者の8ミリ映画ブームに火をつけた。そのインパクトは村上龍の『69 sixty nine』や四方田犬彦の『ハイスクール1968』でも語られている。東大に進学するはずだったが、学園紛争で入試が中止になったので進学をやめ、弱冠20歳で大島渚監督の『東京战争戦後秘話』の脚本と予告編を手がけ、23歳で代表作となるロードムービー『初国知所之天皇(はつくにしらすめらみこと)』(73)を撮りあげてしまう。ここまでが「前期=実験映画の時代」の良く知られたエピソードだ。

原將人と同じ1950年生まれの森田芳光は、78年に『ライブイン茅ヶ崎』を撮り、ぴあフィルムフェスティバルの前身となった自主映画展で入選し、80年代に商業映画デビューした。それに比べて、79年に最初の妻とのあいだに長男が生まれた原將人は、その後10年間、テレビ番組やPR映像を制作して家族を養うことになり、いったん映画の世界から離れる。とはいえ、世間に認められたのが森田より10年も早かった原が、「森田とともに日本の8ミリ映画ブーム、ひいては現在のPFFにつながる若者の自主映画ブームをつくった先駆者であることはまちがいない」と、掛尾良夫(元キネマ旬報編集長)は筆者によるインタビューで語っていた。

中期は「ドキュメンタリーと劇映画の時代」である。1993年の山形国際ドキュメンタリー映画祭で、原將人は『初国知所之天皇(はつくにしらすめらみこと)』の93年版を特別上映し、95年の同映画祭で22年ぶりとなる映画の新作『百代の過客』を発表して「天才少年の帰還」と騒がれた。原と15歳の長男が芭蕉と曾良のように東北の「奥の細道」を旅し、俳句を詠み、作曲し、自分たち親子にカメラをむけたドキュメンタリーだった。このときも原は、河瀨直美の『につつまれて』(92)や寺田靖範の『妻はフィリピーナ』(94)とともに、当時最先端だった90年代におけるセルフ・ドキュメンタリーの系譜をさっそうと切り拓いた。
1997年に『ロードムービー家の夏』で3回連続、山形国際ドキュメンタリー映画祭に出品した原將人。その同年に発表したのが、初の劇映画となった『20世紀ノスタルジア』である。同作で監督協会新人賞を受賞したのには今更感があったが、広末涼子がブレイクする直前の95年当時に彼女の才能を見いだし、初主演映画に導いたことは強調してもよい。放送部の女子高生と個性的な転校生の男の子の恋愛映画だが、同時にミュージカルとしても楽しめる本作の楽曲は、『初国知所之天皇』、『百代の過客』に続き、原自身が作詞・作曲を担当してCDアルバムも発売された。この頃から日本では携帯電話が普及しはじめ、セルフィー(自撮り)という言葉が生まれたのは2003年頃とされるが、原はセルフ・ドキュメンタリーの手法を劇映画に大胆に導入し、広末に小型ビデオカメラを持たせて自撮りさせる斬新なカメラワークを駆使して時代をリードした。

中期と後期はどこに線を引くかが難しいが、筆者は原將人の映画にミューズである「原まおり(真織)」が登場する2002年以降と考えたい。大分県日田市の日田市長の家に生まれたまおりは、映画を作りたい、映画監督になりたいと考えて、由布院映画祭を手伝っていたところで原と出会った。親子ほど年齢が離れていたが、親の反対を押し切って結婚して京都で暮らし、ふたりにとっては長男の鼓卯(こぼう)が生まれた。ふたりの馴れ初めについては筆者が撮った原將人の伝記ドキュメンタリー『映画になった男』(18)に詳しい。

1999年に日の丸・君が代が法制化されたことを契機に、新作のロードムービーを撮りはじめる。まおりがこぼうを産んで首がようやくすわった頃に、京都、大分、沖縄を夫婦と幼子が日本探しの旅をするセルフ・ドキュメンタリーが、やまと言葉で、ひとり、ふたり、みたりと「三人」を意味する『MI・TA・RI』(02)だ。本作の驚くところは、スクリーンに投影される三面マルチ画面の両脇が8ミリ、真ん中がヴィデオという特異なハイブリッド形式に加えて、映像を上映しながらライブで原がピアノ演奏し、原とまおりが歌とナレーションを重ねるという上映形態の革新性にある。いわば『初国知所之天皇』のライブ上映を夫婦でおこなうのだが、完成した作品は「女性が新しい命を宿すこと」をテーマにした、それまでの原作品にはない女性映画になった。「この時に原から共同監督の提案があったが、まだヒヨッコだった私はとんでもないと思った」と、まおりは言う。

原將人は2007年に劇映画第2弾『あなたにゐてほしい Soar』(13)の撮影に入るが、さまざまな要因で撮影は中断し、原は多額の借金を背負い、映画が完成して公開されるまで8年もかかった。戦時中に兵役で婚約者を失った女性を原まおり(観音崎まおり名義)が演じ、全編にわたって歌って踊る和風ミュージカルであり、昭和30年代のテレビの時代を独自の視点で捉えたものだ。63歳にして原は双子の娘の父親となり、iphoneで家族の姿を撮影するシリーズをはじめて、『双子暦記・私小説』(18)と『焼け跡クロニクル』(22)の2本を完成する。特に後者は自宅が火事で全焼し、大やけどを負った原の姿をまおりが撮影した共同監督作になった。(現在、『双子暦記・星の記憶』を編集中)
クロニカルに原の映画世界をたどると、シネマの神の手によって、彼の人生に次々と映画のモティーフとなる困難な事件が降りかかっていることがわかる。まさにシネマを撮りつづける宿命の星のもとに生まれた映画詩人、それが原將人であり、そのミューズがまおりではなかったか。『焼け跡クロニクル』には、天才映画少年が50年後に大やけどした姿が映っているが、それは、みずから火のなかに飛びこみ、何度でも蘇ってくるフェニックスそのものではないか。

COMMENT

コメント

ヤマザキマリ(漫画家・文筆家)

思いがけない大惨事と向き合いながらも、新しい日常の中で淡々と生きる喜びという糧を見つけていく家族。
人間を俯瞰で捉える視点、そして優しさと逞しさ。
人生を歩んでいくのに最低限度必要なことをこの作品は教えてくれる。

佐々木敦(思考家)

原將人は文字通り、自分の人生を映画と、自分の映画を人生と、完全に等価なものとして生き、撮ってきた。
『焼け跡クロニクル』には、そこに原まおりの視点/視線が重ねられている。
続きを読む

池辺麻子(映画ライター)

原監督の火傷の痕は痛々しいけれど、カメラ(iphone!)を回すまおり監督との語らいが微笑ましく、家族が寄り添って生きる姿の力強さに心を打たれる。
奇跡的に無事だった8ミリフィルムの映像がノスタルジックな彩りを添え、ファンタジーのような美しさ。
命があって、よかった。

藤井克郎(映画記者)

悲しみの先に差し込む希望の光からは、
さすがは夫婦そろって映像作家の視点だなと感じ入った。

山田洋次(映画監督)

原將人は転んでもただでは起きない。
自分の住居が火事になるということはそう誰もが経験することではない。原君はその不幸に遭遇したが、燃えさかる家に飛び込んで火をものともせずに、撮りためた大切な八ミリのフィルムを夢中で運び出した。
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瀬々敬久(映画監督)

僕は原さん、原將人さんを応援しないわけにはいきません。
原さんの作品を初めて見たのはテレビでした。高校生の頃、たまたま見たNHK教育テレビの『若い広場』で、『おかしさに彩られた悲しみのバラード』原さんが高校生の時に作った映画、その抜粋が紹介されたのです。僕がまったく見たことがないような映画でした
続きを読む

原一男(映画監督)

原-原コンビという硬い契り(?)を交わした、その相方の原將人監督から、電話をもらった。
今、最新作「焼け跡クロニクル」を製作中とのこと。
「焼け跡から見つけたフィルムをチェックしたんだけど、焼けたことによってフィルムが、凄くいい感じになってるんだよね」と、私に得意げ(?)に語る声は、凄く弾んでいた。
私は、ああ、この原將人という人は天性のフィルムメーカーなんだなあ、と改めて思い知らされた感じがして、深く感動していた。
続きを読む

犬童一心(映画監督)

「焼け跡クロニクル、拝見させていただきました。
まさにお宝映像でした。

前半、火事という災いの中でも、
映画が元気と強さに支えられ陽のまま進んでいく、そこに魅力を感じて見ていました。
でもそれは、奥様のカラーなんでしょうね。
続きを読む

浜野佐知(映画監督)

この映画は断じて「小さな家族の再生の物語」などではない。これは、突然襲いかかって来た災いに戦いを挑んだ一人の女性の物語だ。
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谷川建司
(映画ジャーナリスト/早稲田大学政治経済学術院客員教授)

我々は原將人という映画監督をよく知っている。原將人の撮った映画を観れば、そこに、原將人の思考や志向、そして嗜好が見て取れるからだ。原將人の映画と原將人の人格は同じだとさえ言える。
だが、新作『焼け跡クロニクル』を観て、驚きにも似た新鮮な発見があった。
続きを読む

四方田犬彦(映画誌・比較文学研究)

原將人、フィルムの死と再生
戦争、地震、不意の火事。これまで数えきれないフィルムが失われてきた。
ニトロ・セルロースによる可燃性フィルムは気温が上昇すると酸化分解し、たやすく自然発火してしまう。1950年に松竹下賀茂撮影所のフィルム倉庫で起きた火事は、周辺の十数軒の民家を焼き、衣笠貞之助の戦前作品のほとんど燃やしてしまった。そして奇跡的に厄難を逃れた『狂つた一頁』を、日本映画史を輝かしいものにした。
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THEATER

劇場情報

前売り鑑賞券 発売中

¥1,500(税込)

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※上映時間および詳細は、各劇場へお問い合わせください。 ※前売券は劇場でお求めいただけます。
※劇場情報は随時更新いたします。

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