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焼け跡クロニクル

焼け跡クロニクル

音 楽:原  將 人 監 督:原 真 織  

 出 演: 原 將人 原 鼓卯 原 真都 原 歌鈴 原 真織   


 

撮影・編集・構成:原 真織  
協賛:ヨコシネディーアイエー 後援:京都市 
2024/日本/85min/5.1ch/16:9/カラー
Ⓒ『焼け跡クロニクル ディレクターズ・カット』

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INTRODUCTION

イントロダクション

古都・京都の美しい風景

焼け跡に残された
8ミリフィルムの記憶

          

火事当日から約1週間の記録映像に残されたエピソードたち

         

逆境に負けない映画家族による   私小説風ドキュメンタリー映画

DIRECTOR

監督メッセージ

監督:原 真織 HARA Maori

自宅火事からの5年の歳月と記録映像の存在

      

この世に生まれ落ちて「生きていくという覚悟」を持つことができたのは、映画との出逢いがあったからです。

生きる希望が持てない時、私は何度も、何度も、自分と相性のいい多くの映画の時間に身を委ねることで、前向きに生きる知恵や勇気を養ってきました。  映画はわたしに生きる喜びを知らせてくれたので、実人生の中でそういうものを探りながら生きてきました。

2018年の初夏に、火事で家が焼けた時。大変なことになったという実感はありましたが、実は、そんなに動揺しませんでした。それよりもむしろ、 どうやってこの難局を乗り越えようかという意気が張り詰めていて、乗り越えるにはかなりの時間を要することになるだろうと、冷静に考えていました。

そしてその後、マテリアル的な回復。金銭的な回復。精神的な回復など、問題は抱えきれないほど山積みになりました。

 精神的回復以外は、多くの力に支えられて、数年もすればどうにかなるものでした。感謝してもしきれません。ただ、自らの精神的治癒が必要な精神的回復は、私たち家族の場合、少なくとも5年の歳月が必要でした。そしてその間、火事後の記録映像と向き合えたことは、素晴らしく幸運でした。

 楽しいことやハッピーな気分の高揚感がいつまでも続かないように、耐え難く辛いことだっていつまでも長続きはしないということを経験し学びました。希望は、いつも傍にある。

日常の中から希望を見出す感性を失わず映画を作りたい。 

タイトルの「焼け跡」という言葉のイメージは、戦後の風景。破壊から復興への希望の象徴です。地球という星に生息するわたしたち人類には、数多の難局を必ず乗り越えて復興へ向かってきたという歴史的な事実があります。

焼け落ちた屋根瓦の上を歩きながら、焼けた家の真ん中に立った私は、突き抜けた夏の空の青さや、焼けて煤になってしまった家の風景からも、希望を見出そうとしていました。
この映画のスピリットは、静かに逆境に立ち向かった時間の集積。忘れたくない、むしろ愛おしい透明な闘いのドラマ。

これまでフィクションが描いてきた「火事のイメージ」は、火事の不幸な側面ばかりを大袈裟に描くようなネガディブに偏ったものであったと断言しましょう。しかし、火事が不幸の塊だけなのでは決してありません。

リアルにノンフィクションで火事を体験してみると「フィクションが生んだ 火事のイメージ」が嘘っぱちだということがよくわかりました。機会があれば、私小説風ドキュメンタリー映画『焼け跡クロニクル ディレクターズ・カット』に触れてみてください。
 

原 真織(はら まおり)

1973年1月1日、大分県日田市出身。荒井晴彦初監督作品『身も心も』のボランティア炊事班として参加。湯布院映画祭で原 將人と出逢い、結婚。子連れ新婚旅行を記録したたライブロードムービー『MI・TA・RI!』では、原から撮影、編集、 脚本、出演など、個人映画製作全般を学ぶ。美しい8ミリフィルムを3面マルチで披露する同作は、第1回フランクフルト国際映画祭でライブ上映されて観客賞を受賞。日本の戦後を舞台にした『あなたにゐてほしい ~SOAR~』の主演(観音崎まおり)に起用され、ゆうばり国際ファンタスティック映画祭で、渚特別賞受賞。一男と双子の娘の母。慶應義塾大学文学部通信課程で学習中。


主演・音楽:伝説の映画監督 原 將人 HARA Masato

あり得るべき未来を獲得する

新作『焼け跡クロニクル』を語るにあたって、まず、2020年にアメリカのミネアポリスで起きた、白人警官による無罪の黒人の殺害事件を、勇気を持って記録し続けた18歳少女のことを思い出してほしい。撮影することによって獲得できる未来があることを。

少女のスマホ映像は、アメリカという国の、奴隷制や人種差別という、大きな物語を喚起させ、人種的平等という未来を獲得する動きへと繋がっていったものだが、この『焼け跡クロニクル』の私たち家族に起きた火事とその後の映像は、それに比べたらごくごく小さなもので、大きな物語や権力への抗議などを想起させるものはない。

しかし、この映画の監督である真織が、火事の知らせを受けて我が家に向かった時からスマホのカメラを回していたことは、映画の歴史に於いてはそれと同じくらい重要なことだったと、今、思うのだ。

私たちの日常は、映画に撮っても、非日常の枠組みが加えられなければ(ホームムービーで終わってしまう)、長い歴史のなかに埋没し、決して作品として広く見られ、未来に残ることもない。

『焼け跡クロニクル』は、宇宙歴138億年、地球歴48億年の今、この星に生まれてきた者同士がたまたま家族を作り、未来へ向かっていのちを紡いでいくということのいとなみが、火事という非日常と出会うことによって、スマホという小さなカメラにつぶさに記録され、生成された映画だ。

だから『焼け跡クロニクル』を日本中の人々に届けたい。世界中の人々に届けたい。 私たちの未来に届けたい。そして、私たちがあり得るべき未来を獲得することにつなげたい。

かつて小津安二郎監督の『東京物語』がそうであったように、小さな家族の小さな映画を世界に羽ばたかせたいという願いを『焼け跡クロニクル』に託す。

原將人(はら まさと)

1950年、東京生まれ。1999年より京都在住。1968年、麻布学園高校在学中に『おかしさに彩られた悲しみのバラード』(以下『バラード』)で第1回フィルムアートフェスティバル東京においてグランプリ・ ATG賞をW受賞。10代で松本俊夫監督の『薔薇の葬列』助監督、大島渚監督『東京战争戦後秘話』脚本・予告編の演出を手掛け、天才映画少年と称される。
1973年に発表した『初国知所之天皇』は独自のスタイルで、新しい映画の地平を切り開き、インディーズ映画の傑作として語り継がれる。瀬々敬久、大森一樹、犬童一心らが「監督を志したきっかけは『バラード』と『初国知所之天皇』」と公言し、『バラード』は村上龍の小説「69」にも登場するなど、多大な影響を及ぼした。
1997年、広末涼子映画デビュー作『20世紀ノスタルジア』で、日本映画監督協会新人賞を受賞。2002 年、デジタルプロジェクター1台と8mm映写機2台による、3面マルチ投影のライブ作品『MI・TA・RI!』が第1回フランクフルト国際映画祭観客賞受賞。63歳で、双子の姉妹の父になる。
その他の作品に芭蕉の「奥の細道」を追った『百代の過客』(93・山形国際ドキュメンタリー映画祭95コンペティション作品)、『あなたにゐてほしい~SOAR~』(13・ゆうばり国際ファンタスティック映画祭渚特別賞)、『双子暦記・私小説』(18・第1回東京ドキュメンタリー映画祭長編部門グランプリ)などがある。

ABOUT

解説

「伝説的映画監督、原將人」の
軌跡 

金子遊(批評家・映像作家)

「原將人」と聞いて、相当なシネフィルであっても「名前は知ってるけど作品は観たことがない」「広末涼子のデビュー作『20世紀ノスタルジア』だけ観た」という人が多いのではないだろうか。なぜなら、原の作品のほとんどが実験映画や前衛映画、ドキュメンタリーのジャンルに属しており、山形の映画祭まで行って観たり、全国各地でおこなわれる彼のライブ付き上映に足を運ばないと観られない作品が多いからだ。それゆえに「伝説の映画作家」や「日本のゴダール」「日本のジョナス・メカス」といった形容句が彼の名前にはつきまとう。大森一樹、瀬々敬久、犬童一心ら商業映画で活躍する監督たちが強い影響を受けたことを公言する監督・原將人を「伝説」のままにしていてはいけない。ここでは原將人による珠玉の作品群を、前期、中期、後期という年代順に整理して紹介しよう。

前期は「天才映画少年」の時代だ。1968年、麻布高校時代に友人たちと16ミリで撮った短編『おかしさに彩られた悲しみのバラード』が、武満徹や勅使河原宏が審査員をつとめる映画祭でW受賞を果たす。新聞や雑誌などマスコミの寵児となり、若者の8ミリ映画ブームに火をつけた。そのインパクトは村上龍の『69 sixty nine』や四方田犬彦の『ハイスクール1968』でも語られている。東大に進学するはずだったが、学園紛争で入試が中止になったので進学をやめ、弱冠20歳で大島渚監督の『東京战争戦後秘話』の脚本と予告編を手がけ、23歳で代表作となるロードムービー『初国知所之天皇(はつくにしらすめらみこと)』(73)を撮りあげてしまう。ここまでが「前期=実験映画の時代」の良く知られたエピソードだ。

原將人と同じ1950年生まれの森田芳光は、78年に『ライブイン茅ヶ崎』を撮り、ぴあフィルムフェスティバルの前身となった自主映画展で入選し、80年代に商業映画デビューした。それに比べて、79年に最初の妻とのあいだに長男が生まれた原將人は、その後10年間、テレビ番組やPR映像を制作して家族を養うことになり、いったん映画の世界から離れる。とはいえ、世間に認められたのが森田より10年も早かった原が、「森田とともに日本の8ミリ映画ブーム、ひいては現在のPFFにつながる若者の自主映画ブームをつくった先駆者であることはまちがいない」と、掛尾良夫(元キネマ旬報編集長)は筆者によるインタビューで語っていた。

中期は「ドキュメンタリーと劇映画の時代」である。1993年の山形国際ドキュメンタリー映画祭で、原將人は『初国知所之天皇(はつくにしらすめらみこと)』の93年版を特別上映し、95年の同映画祭で22年ぶりとなる映画の新作『百代の過客』を発表して「天才少年の帰還」と騒がれた。原と15歳の長男が芭蕉と曾良のように東北の「奥の細道」を旅し、俳句を詠み、作曲し、自分たち親子にカメラをむけたドキュメンタリーだった。このときも原は、河瀨直美の『につつまれて』(92)や寺田靖範の『妻はフィリピーナ』(94)とともに、当時最先端だった90年代におけるセルフ・ドキュメンタリーの系譜をさっそうと切り拓いた。
1997年に『ロードムービー家の夏』で3回連続、山形国際ドキュメンタリー映画祭に出品した原將人。その同年に発表したのが、初の劇映画となった『20世紀ノスタルジア』である。同作で監督協会新人賞を受賞したのには今更感があったが、広末涼子がブレイクする直前の95年当時に彼女の才能を見いだし、初主演映画に導いたことは強調してもよい。放送部の女子高生と個性的な転校生の男の子の恋愛映画だが、同時にミュージカルとしても楽しめる本作の楽曲は、『初国知所之天皇』、『百代の過客』に続き、原自身が作詞・作曲を担当してCDアルバムも発売された。この頃から日本では携帯電話が普及しはじめ、セルフィー(自撮り)という言葉が生まれたのは2003年頃とされるが、原はセルフ・ドキュメンタリーの手法を劇映画に大胆に導入し、広末に小型ビデオカメラを持たせて自撮りさせる斬新なカメラワークを駆使して時代をリードした。

中期と後期はどこに線を引くかが難しいが、筆者は原將人の映画にミューズである「原まおり(真織)」が登場する2002年以降と考えたい。大分県日田市の日田市長の家に生まれたまおりは、映画を作りたい、映画監督になりたいと考えて、由布院映画祭を手伝っていたところで原と出会った。親子ほど年齢が離れていたが、親の反対を押し切って結婚して京都で暮らし、ふたりにとっては長男の鼓卯(こぼう)が生まれた。ふたりの馴れ初めについては筆者が撮った原將人の伝記ドキュメンタリー『映画になった男』(18)に詳しい。

1999年に日の丸・君が代が法制化されたことを契機に、新作のロードムービーを撮りはじめる。真織がこぼうを産んで首がようやくすわった頃に、京都、大分、沖縄を夫婦と幼子が日本探しの旅をするセルフ・ドキュメンタリーが、やまと言葉で、ひとり、ふたり、みたりと「三人」を意味する『MI・TA・RI』(02)だ。本作の驚くところは、スクリーンに投影される三面マルチ画面の両脇が8ミリ、真ん中がヴィデオという特異なハイブリッド形式に加えて、映像を上映しながらライブで原がピアノ演奏し、原と真織が歌とナレーションを重ねるという上映形態の革新性にある。いわば『初国知所之天皇』のライブ上映を夫婦でおこなうのだが、完成した作品は「女性が新しい命を宿すこと」をテーマにした、それまでの原作品にはない女性映画になった。「この時に原から共同監督の提案があったが、まだヒヨッコだった私はとんでもないと思った」と、真織は言う。

原將人は2007年に劇映画第2弾『あなたにゐてほしい Soar』(13)の撮影に入るが、さまざまな要因で撮影は中断し、原は多額の借金を背負い、映画が完成して公開されるまで8年もかかった。戦時中に兵役で婚約者を失った女性を原真織(観音崎まおり名義)が演じ、全編にわたって歌って踊る和風ミュージカルであり、昭和30年代のテレビの時代を独自の視点で捉えたものだ。63歳にして原は双子の娘の父親となり、iphoneで家族の姿を撮影するシリーズをはじめて、『双子暦記・私小説』(18)と『焼け跡クロニクル』(22)の2本を完成する。特に後者は自宅が火事で全焼し、大やけどを負った原の姿を真織が撮影した共同監督作になった。(現在、『双子暦記・星の記憶』を編集中)
クロニカルに原の映画世界をたどると、シネマの神の手によって、彼の人生に次々と映画のモティーフとなる困難な事件が降りかかっていることがわかる。まさにシネマを撮りつづける宿命の星のもとに生まれた映画詩人、それが原將人であり、そのミューズが真織ではなかったか。『焼け跡クロニクル』には、天才映画少年が50年後に大やけどした姿が映っているが、それは、みずから火のなかに飛びこみ、何度でも蘇ってくるフェニックスそのものではないか。

COMMENT

コメント

ヤマザキマリ(漫画家・文筆家)

思いがけない大惨事と向き合いながらも、新しい日常の中で淡々と生きる喜びという糧を見つけていく家族。
人間を俯瞰で捉える視点、そして優しさと逞しさ。
人生を歩んでいくのに最低限度必要なことをこの作品は教えてくれる。

佐々木敦(思考家)

原將人は文字通り、自分の人生を映画と、自分の映画を人生と、完全に等価なものとして生き、撮ってきた。
『焼け跡クロニクル』には、そこに原真織の視点/視線が重ねられている。
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山田洋次(映画監督)

原將人は転んでもただでは起きない。
自分の住居が火事になるということはそう誰もが経験することではない。原君はその不幸に遭遇したが、燃えさかる家に飛び込んで火をものともせずに、撮りためた大切な八ミリのフィルムを夢中で運び出した。
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瀬々敬久(映画監督)

僕は原さん、原將人さんを応援しないわけにはいきません。
原さんの作品を初めて見たのはテレビでした。高校生の頃、たまたま見たNHK教育テレビの『若い広場』で、『おかしさに彩られた悲しみのバラード』原さんが高校生の時に作った映画、その抜粋が紹介されたのです。僕がまったく見たことがないような映画でした
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原一男(映画監督)

原-原コンビという硬い契り(?)を交わした、その相方の原將人監督から、電話をもらった。
今、最新作「焼け跡クロニクル」を製作中とのこと。
「焼け跡から見つけたフィルムをチェックしたんだけど、焼けたことによってフィルムが、凄くいい感じになってるんだよね」と、私に得意げ(?)に語る声は、凄く弾んでいた。
私は、ああ、この原將人という人は天性のフィルムメーカーなんだなあ、と改めて思い知らされた感じがして、深く感動していた。
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犬童一心(映画監督)

「焼け跡クロニクル、拝見させていただきました。
まさにお宝映像でした。

前半、火事という災いの中でも、
映画が元気と強さに支えられ陽のまま進んでいく、そこに魅力を感じて見ていました。
でもそれは、奥様のカラーなんでしょうね。
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浜野佐知(映画監督)

この映画は断じて「小さな家族の再生の物語」などではない。これは、突然襲いかかって来た災いに戦いを挑んだ一人の女性の物語だ。
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谷川建司
(映画ジャーナリスト/早稲田大学政治経済学術院客員教授)

我々は原將人という映画監督をよく知っている。原將人の撮った映画を観れば、そこに、原將人の思考や志向、そして嗜好が見て取れるからだ。原將人の映画と原將人の人格は同じだとさえ言える。
だが、新作『焼け跡クロニクル』を観て、驚きにも似た新鮮な発見があった。
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四方田犬彦(映画誌・比較文学研究)

原將人、フィルムの死と再生
戦争、地震、不意の火事。これまで数えきれないフィルムが失われてきた。
ニトロ・セルロースによる可燃性フィルムは気温が上昇すると酸化分解し、たやすく自然発火してしまう。1950年に松竹下賀茂撮影所のフィルム倉庫で起きた火事は、周辺の十数軒の民家を焼き、衣笠貞之助の戦前作品のほとんど燃やしてしまった。そして奇跡的に厄難を逃れた『狂つた一頁』を、日本映画史を輝かしいものにした。
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